中村城跡

■ 中村城跡

「東城」「為松城」「御城」
 地検帳では、「爰ヨリ御城」として、「東城」「為松城」「御城」が記されている。後世の古城山の「城」は、又は一般に言う「中村城」は、以上の3城にまとめられる。
 「東城」は、山涯の西小路御土居の上、現武道館上方の「三の丸」といわれている所と思われる。一条氏の一族西小路氏の居城といわれる。
 「為松城」は「東城」の西北で、本丸、二の丸(資料館の場所)といわれている所で、一条氏の家老(長元記など)為松氏の居城であっただろう。
 「御城」「今城」の地は、宅地造成、中村高校グランド造成等を目的とする開発事業にあたり、昭和58年発掘調査が行われた。その報告書によれば、この「城」は、16世紀前半から用を足し、中葉に完備され後半に及ぶとされる。(房家晩年から兼定まで)そうだとすれば、在国公家から公家大名(戦国大名)へと成長した一条氏が「山城」としての役割をもたせ、と築城したものだろうか。
 尚、検地時点では、前2城は畑と化し、「城」として機能しているのは「御城」のみである。(土佐の「小京都」中村より引用)

 中村御所
 先ず中村の核心であった一条氏の邸宅「中村御所」の所在を考えるために地検帖の一部を(・・・中略)右のうち「御土居」とあるが中村御所である。7反23大5歩(2,243坪 7,402平方メートル)とはさずがに広大な屋敷である。所在場所は御北少路とあるが現在の何町に当るか不明である。しかし、御土居の上の森山に維摩(ゆいま)堂床があるので大体の見当はつく。森山が一条神社々殿のある小山であることは間違いない。この小山は現在では本町1丁目11番地となっているが、それ以前は小森山という小字(こあざ)であったし、市中で山と呼ばれるものはこれ以外にない。
 ところで、この森山は伝説のように御所の構内にあったのか、あるいはまた御所のいずれの側にあったのか判らないのは残念である。いずれにしても中村御所は森山の麓にあったことだけは確実である。
 (中村市史より引用)