一条教房(土佐一条家開祖)
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■ 一条教房(1423~1480)
教房は、一条兼良(摂政・関白・太政大臣を歴任。従一位准三后)の長子として生まれ、応仁2年(1468)幡多に下向して土佐一条家の基をつくった。在国13年、文明12年(1480)に58歳で没し、妙華寺殿と送り名される。奥御前宮にある教房の墓は、弘化3年(1846)の山崩れで埋没していたが、明治33年有志の発掘により五輪石の2個を得、その旨の具申を受けた一条家が補足再興したものである。
(土佐の「小京都」中村より引用)
■ 一条教房の幡多下向
教房の幡多庄下向の目的が何であったかを明らかにした史料を知らないが、次のような事が考えられる。戦乱を避けるためでなければ、何も遠い土佐まで行くことはあるまいから、戦乱によって畿内や付近の荘園からの年貢が入らなくなって、苦しい一家の経済を少しでも豊かにするために、有名無実となっている幡多庄を回復して、荘園としての実績を挙げようとしたのである。それにしても、京都を離れることも稀な最高の貴族が、畿内あるいはその近傍なればともかく、本州と離れた四国の島、それも太平洋の荒波打ち寄せる土佐西南の辺境へ下るというのであるから、並々ならぬ決意といわなければならない。しかも目指す幡多庄も平穏とは限らず、多少の反抗を覚悟しなければならない。武力を持たぬ公卿だけの力ではとうてい不可能な事であった。だが教房の場合は幸いにも土佐の有力武将の協力があった。
(中村市史より引用)
■ 高知県指定史跡 ~ 一条教房墓に書かれていること ~
一条教房は、応永30年(1423)京都の一條室町第で五摂家に一つである一條家の嫡子として生まれた。父は、摂政、関白、太政大臣を歴任した従一位一條兼良で、母は、権中納言中御門宣俊の女である。
長禄二年(1458)関白となり、寛正4年(1463)に辞し、この間に従一位に除せられている。
応仁二年(1468)9月、泉州堺から船出し、同年10月ごろ幡多の庄に着いた。そして中村に館をかまえ、以来一條氏は、五代100余年にわたり戦国大名として土佐西部を支配するとともに京文化を伝えた。
文明12年(1480)58歳で逝去。墓はこの付近にあった妙華寺境内に祀られたようであるが、江戸時代に入り寺が退転すると、墓所は時の経過とともに人々に顧みられなくなったらしい。この墓碑は後年教房の遺徳を慕う人々によりここに再建されたものである。
(平成8年3月1日四万十市教育委員会)
■ 史跡めぐり ~ 一条教房墓に書かれていること ~
前関白一条教房、送り名を妙華寺殿(みょうげじどの)といいます。父は、摂政、関白、太政大臣を歴任し多一条兼良、母は中納言藤原宣俊の娘。応仁の乱(1467年)を逃れ、家領幡多の庄の回復を目指して翌年京都から中村へ下向しました。文明12年(1480)10月5日58歳にて没。在13年間の内に荘園の復活、土佐一条家の創始や、中村を土佐の中心的商都として建設した功績は大きいものでした。教房の菩提寺である妙華寺は、ほぼ現在の中村高校正門の付近にあったと推測されます。
■ 一条教房の身辺
教房の中村での生活は、その身分としては満足すべきものではなかったとしても、戦乱が終わっても帰洛しなかったことから考えると、住めば都で土地になじみ、平穏な明け暮れであったにちがいない。しかし、教房の身辺には不幸な出来事もあった。
教房が下向した翌年の応仁3年には、嫡男の従二位権大納言政房が攝津福原庄で、心ない暴兵のために殺された。政房は父教房の土佐下向を奈良で見送った後、11月19日家領の福原庄に赴いたのであったが、その地にも戦乱が波及して兵士の浪籍が甚しくなった。応仁3年10月17日、政房の仮寓福厳寺に暴兵が乱入した。武士でない政房は防ぐこともなく、端然と座したまま暴兵の凶刀を受けたという。この知らせを聞いた兼良は大いに悲しみ、「とても死ぬる命をいかにももののふの家に生まれぬことぞ悔しき」と嘆いている。父としての教房の悲嘆はそれ以上であっに違いない。政房の死で、一条家を継ぐ自分の血統が断たれることになるだろうとの不安は意外に早く現実となた。政房の死の翌年の文明2年、父兼良の希望によって、当年7歳の末弟冬良を楢子(養子)として家督を継がせる事になったのである。 その翌年3月12日には同伴して下向した夫人(宣旨殿・冬良の養母となってからは二条御局といった)に死別するなどの悲しいことが続いている。
そして文明9年、教房は男児の父となった。母は幡多の武将加久見土佐守宗孝の娘で、教房の側近従三位権中納言町顕郷の楢子となって、文明5年から教房に奉仕ていた中納言の娘である。55歳の教房にとっては思いがけぬ喜びであったろう。だが、その歓びの尽きぬ文明12年10月5日、教房は父兼良の先だって、58年の生涯を閉じた。追号は妙華寺前博陸左相照岳、法諱は宗恵と京都東福寺長老によって名付けられ、中村の妙華寺に埋葬された。教房の冥福を祈って国人(幡多武士)十余人が仏門に入っていることでも、いかに教房が幡多人に慕われていたかを知る事ができよう。
(中村市史より引用)
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