一条房家(初代)

■ 一条房家(1477~1539)

房家は、教房晩年54歳の子で父死去の時はわずかに4歳であった。母は香具三(加久見)宗孝の娘で中納言の局。幼時には仏門に入る事になっていたが、教房の後を継ぎ明応3年(1494)18歳で元服、土佐一条家初代として土佐国司とあがめられた。天文8年(1539)63歳で逝去、藤林寺殿と贈り名して、宿毛市平田藤林寺に葬られた。墓石は高さ48センチの小さなものでかえって目を引く。
 (土佐の「小京都」中村より引用)

 教房の遺児房家は明応3年(1494)18歳で元服し、正五位下、左近衛少将になった。10才前後で元服するのが例になっている摂家の子としては、ずいぶんおそい元服である。これは生後まもなく仏門入りが決まっていたのに、容易に実現しなかったことに関係があるようである。
 房家は文明9年(1477)幡多の武将加久見宗孝の娘を母として生まれ、翌10年には叔父尋尊の孫弟子として仏門(大乗院であろう)入りが決められた。これは当時の貴族の慣例として、家督を継ぐもの以外の男子(女子も多くが)は仏門に入ることになっていたためである。一条家の家督は6年前すでに教房から弟の冬良に譲られることに決まっていたので、以下に教房の実子であっても、もはや家督相続者となることはできなかった。そればかりか、4歳の文明12年(1480)には早くも父に死別するなど、房家の幼時は余りにも暗く寂しいものであった。しかも世の中は不穏であった。
房家7歳の文明15年(1483)10月29日、中村の為松・河原・官気という武士たちが合同して、難波備前守を討つという事件があった。それを難波次郎左衛門(備前守との関係は不明)が京にのぼり、一条家に注進していることから察すると、備前守は教房側近の重要人物であったにちがいない。難波姓から考えると(公家の難波家は一条家と祖を同じくする藤原氏北家流) おそらく教房にしたがって下国した公家の一人であっただろう。
 為松は土佐一条氏四家老の一人に数えられている人物、河原は岩田村の河原城主と考えられる。官気については他に資料が見当たらないが、いずれも教房の家臣(国侍か)であったはずである。それが教房の死後わずか3年目に、早くも一条氏側近の難波氏を伐ったということは、教房の死を機に臣属から脱しようとしたものであろう。
 この事件から1ヶ月後の11月28日、房家は母とともに中村御所から足摺岬の金剛福寺に移った。幼い房家を中村の置くことに危険を感じたためである。母の中納言局は房家が早く上洛できるよう希望しているのに、なぜか容易に実現していない。そして10年が経過した明応3年(1494)18歳になった房家が突然元服して正五位下左近衛少将に叙任されていることは、仏門入りが中止になったことを意味するものであるが、その間の事情は次のことによって大体想像することができる。
 教房死去から1ヶ月余りののち文明12年(1480)11月28日付で教房の弟随心院厳宝からその兄の大乗院尋尊に送った手紙に、『教房の死後も国人(土地の武士)は4才になる若公(房家のこと)を相変わらず尊敬している。』とのことが書かれていて、国人衆が房家の在国を要望する運動を起こした事が考えられ、延徳4年(1492)には房家下向の時に尽力した大平氏が尋尊に面会している。(大乗院寺社雑事記6月22日条)これはおそらく国人衆を代表して、房家土着のことを懇請のためであったのだろう。その2年後明応3年(1494)に房家の元服となっている事実をみても、そのことが察せられるのである。 
 それにしても、一たん仏門入りが決定していたものを中止させるということは、一条家にとっては重大な問題であったにちがいない。それをあえて踏み切ったのは、国人衆の要望もさることながら、幡多庄確保のためには、家族のものが現地に居ることの必要を感じたためではなかっただろうか。
 ともかく房家は、いわゆる公家大名土佐一條氏の初代となったのである。
 かっては一条教房のもとに平和を盟った豪族たちであったが、戦国の世の武士の血がいつまでも平静であるわけはない。永正5年(1508)9月、吾川郡北部の本山茂宗は同郡南部の弘岡の吉良・香美郡山田・高岡郡の大平と連合して、長岡郡岡豊の長宗我部兼序(元秀)を襲撃した。長宗我部は土佐守護代細川氏の庇護を受け、その勢力はあなどり難いものがあって、付近の豪族たちにとって大きな脅威であったからである。さすがの兼序も連合軍の急襲を防ぎかねて自殺したが、死に臨み一子千雄丸(王)を家臣に托して幡多郡中村御所に送り、一条房家の保護を求めた。房家は千雄丸を憐れんで愛育し、10年ののち永正15年に元服させて長宗我部国親と名乗らせ、父の旧領を取り戻して岡豊に帰らせたのである。この温情が土佐一条氏滅亡の因をつくったのであるから余りにも皮肉である。
 本山、吉良、山田、大平等の長宗我部襲撃から9年目の永正14年(1517)には高岡郡で津野、福井両氏の戦いが起こり、これには一条家も巻き添えを食っている。
 津野氏は高岡郡北部の姫野々城を根拠とし、海岸の須崎城をも持つ有力者である。一方福井玄藩は須崎に近い戸波郷の井場城、(戸波城)主で、小身ながらなかなかの気骨物で、常に津野氏に反抗していた。(土佐国古城略史によると、戸波城は、はじめ津野内蔵佐が城主であったが、一条氏が撃って城を奪い福井玄藩に守らせていたとの説があるという。)
 ともかく、津野元実は永正14年4月13日、井場城を攻めたのである。元藩は同郡久礼城主佐竹信濃守を介して一条氏に援兵を請うて来た。
 平和主義の公家大名一条氏ではあるが、教房の時代とは違って、油断すれば何時どこから攻めて来るか判らない時世である。高岡郡の戦いと雖も見過ごすことはできない。まして古くから幡多庄の一部である久礼かの要望とあっては兵を出さねばならなかった。それに土佐一条氏の基礎も固まり、経済的にも豊になっていて、房家41歳、子の房冬は20歳で、まさに活気に溢れている。公卿の身とはいえ、戦国大名としての一面も持たねばならない時世である。衣冠束帯をかなぐり捨てて、鎧かぶとに身を固め采配を振ったのも当然であっただろう。
 思いもかけぬ一条軍の応援で、津野勢は惨々に打ち破られ、津野元実は討死した。一条軍の優勢に恐れをなした付近の武将たちは戦はずして一条軍に降ったので、高岡郡はすべて一條氏の勢力圏となった。
 意外の戦果に気をよくした一条氏であったが、大きな失敗をしている。それは津野元実の子で、当時2歳であった孫次郎の命を助けたばかりでなく、津野氏の本領半山郷まで返してやったことである。のちに勢力を挽回した津野氏は房家の死後一条氏と戦うことになるのである。
 房家は明応3年(1494)正五位下左近衛少将に叙任せられてのち、従四位下左近衛中将。従三位権中納言を経て、永正13年(1516)には権大納言に進んだ。この年はまた、次男の房通が京一條家を継ぐという喜びが重なっている。すでに述べたように、房家は教房の実子でありながら、出生がおそかったために、一条家の主人になれなかった不運の人であった。それだけにこのたびのことの喜びは大きかったであろう。 
 永正13年11月26日、房家は房通を伴って入京すると、12月27日に権大納言に補せられたのである。翌14年4月30日には9歳の房通も元服して正五位に直叙され、房家は10月5日、後柏原天皇に拝謁するなど、喜びの日が続いた。その日の房家は殿上人三人を従え、数人の武官に譲られて参内したことが「公卿補任」に記されている。また滞京中に和歌の会を催して風雅な一面もみせ、10月16日離京して中村に帰っている。永正15年(1518)大納言を辞任したが、同17年(1520)正三位。翌18年従二位。大永6年(1526)正二位に昇っている。
 天文8年(1539)11月13日63歳で死去し、宿毛市平田の藤林寺に葬られた。追号は藤林寺殿正二品東泉大居士(現在の藤林寺位牌による)。
 [註]房家の没年令は「公卿補任」には65歳とあるが、『大乗院寺社雑事記』の63歳が正しいようである。
 一条家当主となた房通は9歳で元服、正五位下を振り出しに、官位とも急速に昇進して20歳の時には正二位権大納言兼右近衛大将、25歳右近衛大将に転、30才で内大臣、33歳には従一位右大臣、翌年左大臣、ついに36歳関白となった、2年後関白を辞任したが、3年後には唯三后の宣下を蒙り位人臣を極め、弘治2年(1556)48才で死去した。
 (中村市史より引用)